取材で各地を回っていると、読めない地名に、しょっちゅうぶつかる。
先日も、ある県の山間部で、どうしても読めない交差点の標識があった。
あとで調べたら、なるほどそう読むのか、というような、
予想のはるか斜め上をいく読み方だった。
こういうとき、ぼくは少し、嬉しくなる。
地名が読めない、というのには、だいたい理由がある。
ひとつは、その土地の古い言葉が、漢字の下に隠れている場合。
音が先にあって、後から誰かが、それらしい漢字を当てた。
だから字面をいくら睨んでも読めない。
音のほうが、ずっと古いからだ。
もうひとつは、もとは普通に読めたのに、
長い年月のあいだに、地元の人の発音がすり減って、
字と音がずれてしまった場合。
「○○村」と書いて、地元では誰も正式名では呼ばず、
まったく違う通称で呼んでいる、というようなことも、よくある。
どちらにしても、読めない地名というのは、
そこに「時間が溜まっている」しるしなのだと思う。
すらすら読める地名は、たいてい新しい。
区画整理でつけられた、なんとか台、なんとかヶ丘の類だ。
あれはあれで、その時代の願いが込められていて、嫌いではないけれど、
やはり、読めない地名のほうに、心が動く。
そういえば、学生のころ、ゼミの教授がよく言っていた。
地名は、その土地がいちばん古くから持っている記憶だ、と。
建物は壊れ、人は去っても、名前だけは、しぶとく残ることがある。
たとえ意味がわからなくなっても、音だけが、口から口へ受け継がれていく。
なぜ、と問うのが、その先生の口癖だった。
なぜ、この名前なのか。なぜ、ここにこの名前があるのか。
当時はピンとこなかったが、最近、ようやくその面白さがわかってきた気がする。
——という話を、誰に聞かせるでもなく、また書いている。
明日もまた、読めない地名を探しに、どこかへ行く。

コメント