少し前から予告していた、あの集落のことを、ようやく書こうと思う。
書こう書こうと思いながら、なかなか書けずにいた。
というのも、どこから書けばいいのか、自分でもよくわからなかったからだ。
いや、わからなかったというのは少し違う。
書きたいことが多すぎて、順番がつけられなかった、という方が、たぶん近い。
ともかく、書く。
今月のはじめ、北海道に取材で入った。
道央のほうの、観光のムック本の仕事だ。
取材自体は三日で終わる予定だった。
実際、三日で終わった。終わったのだけれど、ぼくはそのまま帰らなかった。
前から気になっていた場所が、その取材先から、車で一時間ほどのところにあったからだ。
フリーランスのいいところは、こういうときに融通が利くことだ。
次の締切まで少し余裕があったので、宿を取り直して、もう何日か残ることにした。
我ながら、こういう身軽さだけは、この仕事を選んでよかったと思う。
身軽さだけは、というのは言いすぎかもしれないが。
その「気になっていた場所」というのが、今日の本題だ。
北海道・空知地方の山あいに、かつて炭鉱で栄えた集落があった。
正式な地名は、ここでは伏せておく。
理由は前にも書いたとおりで、人が押しかけてしまったら、
あの場所の、あの感じが、たぶん変わってしまう気がするからだ。
ああいう場所は、誰にも知られずにそこにあるからこそのものだ、と、ぼくは思っている。
だから、正式名のかわりに、その集落の「もうひとつの名前」のほうを、
仮にここでは使うことにする。
レンタカーを途中の林道の入り口に停めて、あとは歩きで向かった。
熊鈴を鳴らしながら、沢沿いの、もう道とも言えないような道を、一時間ほど登っていく。
登っていくと、それはあった。
崩れかけた炭住の長屋。
草に呑まれて、基礎だけになった選炭場。
そして、集落のすぐ脇を、細く、何度も折れ曲がりながら流れている、沢。
役場の記録に残る正式名は、炭鉱が拓かれた明治の終わりに付けられた、
「栄」という字を含む、いかにも縁起のいい名前だった。
繁栄を願って付けたのだろう。
いまは誰もいないことを思うと、その名前は、なんだか少し皮肉に響く。
栄える、という字を当てられた場所が、こうして誰もいなくなっている。
だから、ここでは仮に「栄沢(さかえざわ)」と呼んでおくことにする。
(正式名そのものではない。が、雰囲気は近いはずだ。)
さて、おもしろいのはここからだ。
栄沢の近くに、いまもぽつぽつと人の住む、小さな集落がある。
そこで畑仕事をしていた老人に、話を聞くことができた。
ぼくが「栄沢」にあたる正式名を口にすると、老人は、例によって、というか、
こういう取材ではよくあることなのだけれど、
「ああ、役場の名前な」という顔をした。
そして、老人がその廃村を呼ぶときに使ったのは、
まったく違う、もっと古い、川の名前から来ている呼び名だった。
聞き取れた音を、カタカナで書きとめると、「ポンレウケナイ」に近い。
あとで調べてみると、これはアイヌ語由来の地名の「型」に、きれいに合う。
ポン=小さい。レウケ=曲がる。ナイ=沢。
つまり、「小さく曲がる沢」。
これには唸った。本当に唸った。
だって、まさにそのとおりの沢なのだ。
集落の脇を、細く、何度も折れ曲がりながら流れている、あの沢。
千年も前の人が、あの沢を見て、「小さく曲がる沢」と名づけた。
その名前だけが、集落が栄えて、そして消えて、いまに至るまで、
ずっと、ずっと生き延びている。
「栄沢」という、たかだか百年ほどの新品の名前の下に、
「ポンレウケナイ」という、千年の古い名前が眠っている。
役場の名前と、土地の名前。
新しい名前と、古い名前。
百年の名前と、千年の名前。
こういうのが、ぼくはいちばん好きなのだ。
何度でも言うが、こういうのが、いちばん好きなのだ。
ひとつだけ、妙なことがあった。
沢の、いちばん奥まったあたりで、何枚か写真を撮ったのだが、
家に――いや、宿に帰ってから見返すと、その数枚だけ、変なノイズが乗っていた。
画面全体に、うっすらと、砂嵐みたいな粒が乗っている。
ほかの場所で撮った写真は、なんともない。奥で撮ったものだけだ。
古いデジカメだから、まあ、こういうこともあるんだろう。
湿気のせいか、温度のせいか。
そういえば、あのあたり、やけにひんやりしていた。
こっちはもう九月の終わりで、里でも朝晩は冷えるようになってきたけれど、
あの沢の奥の冷えは、なんというか、それとは違う種類のものだった。
秋の冷えではなく、もっと、底のほうから這い上がってくるみたいな。
うまく言えない。とにかく、やけに冷えていたし、それから、妙に静かだった。
いま思い返すと、鳥の声が、ひとつもしなかった。
ひとつもしなかったな、と、これを書きながら、また思い出している。
鳥の声がしない沢、というのは、考えてみると、少し変な感じがする。
……まあ、いい。考えすぎだ。
写真がだめでも、沢の名前のほうは、ちゃんと手に入った。
今回はそれで十分だ。十分すぎるくらいだ。
「ポンレウケナイ」。
この名前のこと、もう少し、調べてみようと思う。
幸い、まだ何日か、こちらにいられる。
なるようになるだろう。

コメント