廃屋に、めくられないままのカレンダーがあった

廃村を歩くのが、趣味だ。

誰もいなくなった集落を訪ねて、かつての暮らしの痕跡を、ぼんやり眺める。
悪趣味だと言われれば、否定はしない。
でも、ぼくにとっては、歴史の本を読むのと、あまり変わらない。
活字になる前の、名もなき人の暮らしが、そこには、転がっている。

先日訪れた、ある山村の跡で、印象的なものを見た。

崩れかけた一軒の家。
その、まだかろうじて壁が残っている部屋に、
カレンダーが、一枚、かかったままだった。

色あせて、湿気で波打っているが、まだ読める。
昭和五十×年の、ある月。
農協が配ったような、素朴なものだ。

そして、そのカレンダーは、その月のまま、めくられていなかった。

つまり、その家の人は、その月のどこかで、この家を出た。
そして、二度と、戻らなかった。
カレンダーをめくる、次の月を、ここで迎えることは、なかった。

ぼくは、しばらく、その前に立っていた。

カレンダーというのは、未来を待つ道具だ。
来月がある、再来月がある、という前提で、人は、それをめくる。
めくられないまま止まったカレンダーは、
その人の「未来」が、そこで途切れたことを、示している。

もちろん、その人は、死んだわけではないだろう。
たぶん、町へ引っ越して、新しい暮らしを始めた。
新しい家で、新しいカレンダーを、めくっていったはずだ。

でも、この家にとっては、この部屋にとっては、
時間は、あの月のまま、止まっている。
四十年、ずっと、同じ月のまま。

廃村を歩いていると、よく思う。
建物は、人がいなくなると、急に老ける。
人が住んでいる家は、不思議と、古くてもしゃんとしている。
毎日、人が動き、空気が入れ替わり、手が入る。
その「使われている」ということが、家を生かしている。

人がいなくなったとたん、家は、一気に、死に始める。

だから、廃屋に残されたものたちは、
その「時間が止まった瞬間」の、標本のようなものだ。
めくられないカレンダー。錆びた急須。色あせた子供の落書き。
どれも、ある日を境に、未来を失った。

ぼくは、そういうものを見るために、わざわざ山奥まで行く。
理由は、自分でも、よくわからない。
ただ、こういう「止まった時間」の前に立つと、
自分のいる「動いている時間」が、急に、ありがたく、不確かなものに思えてくる。

ぼくのカレンダーは、まだ、毎月、めくられている。
来月も、たぶん、めくる。
でも、それは、当たり前のことではないのかもしれない。
あの家の人だって、まさか、あの月が最後になるとは、
思っていなかっただろうから。

* * *

写真を撮ってきた。
本当は、ああいう場所のものに、手を触れたり、持ち帰ったりは、しない。
そっと、見て、そっと、立ち去る。それが、ぼくの流儀だ。
だから、残せるのは、写真だけ。

> (写真:めくられないままのカレンダー ※イメージです)

この一枚を、ときどき、見返す。
あの部屋の、止まった時間が、ここにだけ、残っている。

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