残されたものは、なぜか生活の細部だ

廃村を歩いていて、いつも不思議に思うことがある。

人がいなくなった家に残されているのは、
たいてい、どうでもいいような、生活の細部なのだ。

立派な仏壇や、高そうな家具は、たいてい持ち出されている。
当たり前だ。価値のあるものは、引っ越すときに持っていく。
残るのは、持っていく価値もなかったもの。
欠けた茶碗。錆びた鍋。色あせたカレンダー。
子どもの落書きが残った柱。壁に貼られたままの、何かの予定表。

そういうものを見ると、ぼくはいつも、立ち止まってしまう。

豪華なものより、こういう「どうでもいいもの」のほうが、
そこに人が生きていた、という感じを、強く伝えてくる。
誰かが、毎朝この茶碗で飯を食っていた。
誰かが、この柱に背を預けて、夜なべをしていた。
誰かが、このカレンダーに、何かの予定を書き込もうとして、
結局、書かないまま、出ていった。

引っ越しというのは、たいてい、未来に向かっての行為だ。
新しい場所での暮らしのために、必要なものを選んで、持っていく。
だから残されるのは、未来に連れていく必要のなかったもの——
つまり、過去そのものだ。

廃村は、そういう「置いていかれた過去」の、吹き溜まりなのだと思う。

もっとも、最近は、こういう場所も少なくなってきた。
きちんと解体されて、更地になり、何の痕跡も残らない。
それはそれで、正しい弔い方なのかもしれない。
ただ、ぼくのような物好きにとっては、少しさみしい。

置いていかれたものたちを眺めて、勝手に来歴を想像する。
役にも立たない、けれど、やめられない。
たぶん、これからも、こういう場所を探して歩くのだと思う。

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