古い地図にだけ、ある村がある

古地図を集めている。

骨董価値のあるような立派なものではなく、
明治や大正の、実用的な地形図。古本屋で、数百円で買えるようなものだ。
それを、現代の地図と見比べるのが、何より楽しい。

先日、ある地方の、明治の地形図を眺めていて、
ひとつの集落に、目が留まった。

小さな村だ。家が、十数軒。神社の鳥居の記号と、お寺の記号。
名前も、ちゃんと、書いてある。
ごくありふれた、山あいの村に見える。

ところが。

同じ場所を、現代の地図で見ると、何もない。
村がない。道もない。ただ、山の緑が、広がっているだけ。

ダムに沈んだのか、と思った。
よくある話だ。戦後、各地でダムが作られ、多くの村が水底に消えた。
でも、調べてみると、その一帯に、ダムは、ない。

では、過疎で消えたのか。
それも、考えにくかった。
というのも、その村が「消えた」時期が、どうも、おかしいのだ。

大正の地図には、まだ、ある。
昭和の初めの地図にも、ある。
ところが、昭和十年代の地図から、ぷつりと、消える。
そして、それ以降、二度と、現れない。

過疎なら、もっと、じわじわ消える。
家が、一軒、また一軒と減って、何十年もかけて、無人になる。
でも、この村は、ある時期を境に、地図から、一斉に、消えている。

戦争か、とも思った。
昭和十年代だ。何か、軍事的な理由で、立ち退かされたのかもしれない。
演習場になった村は、実際にある。
でも、その一帯に、そういう記録は、見当たらなかった。

結局、ぼくには、この村が「なぜ、いつ、どう消えたのか」が、
わからなかった。
郷土史誌をいくつか当たっても、その村の名前は、
まるで、最初から存在しなかったかのように、出てこない。

地図には、確かに、ある。名前も、ある。
なのに、それ以外の、どこにも、記録がない。

こういうとき、ぼくは、奇妙な感覚にとらわれる。

地図は、その村が「あった」と言っている。
でも、地図以外のすべてが、「なかった」と言っている。
どちらが、本当なのか。

たぶん、答えは、平凡なものだ。
記録が、たまたま、残らなかっただけ。
小さな村が、何かの事情で移転し、誰も書き留めなかった。
それだけのことだろう。たぶん。

でも、こういう「地図にだけ残った村」を見つけると、
ぼくは、いつも、行ってみたくなる。

その場所に立って、確かめたくなる。
本当に、何もないのか。
かつて、ここに、十数軒の家と、神社と、寺が、あったのか。
その痕跡が、本当に、きれいさっぱり、消えてしまったのか。

地図が「あった」と言う場所に、自分の足で立って、
「なかった」を、確かめる。
あるいは——「まだ、ある」を、見つけてしまう。

そういう旅を、ぼくは、性懲りもなく、繰り返している。

* * *

この村にも、いつか、行ってみるつもりだ。
場所は、もう、特定してある。
ただ、なかなか、踏ん切りがつかない。

地図にだけある村に、足を踏み入れるのは、
なんというか——行ったきり、自分も地図から消えてしまいそうな、
そんな、ばかげた予感が、するからだ。

もちろん、ただの、考えすぎである。

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