廃村を歩いていると、いつも同じことを思う。
建物は、案外あっけなく消える。
木造の家屋なら、十年も放っておけば屋根が落ちる。
二十年で柱が傾き、三十年も経てば、もう床がどこにあったかもわからない。
草が呑み、土に還る。人がいたという証拠は、驚くほど早く消えていく。
ところが、道だけは、しぶとく残る。
舗装などされていない、ただの踏み分け道でも、
いちど人が繰り返し歩いて固めた地面は、
不思議と、まわりの藪とは違う「線」として、いつまでも残る。
草の生え方が違う。土の締まり方が違う。
歩いてみると、足の裏が「ああ、ここは道だ」と気づく。
頭で考えるより先に、体がわかる。
先日歩いた、ある山あいの集落の跡もそうだった。
家はもう、礎石がかろうじて残るくらい。
それなのに、家と家を結んでいたであろう道は、はっきりと残っていた。
井戸へ向かう道。畑へ向かう道。
そして、集落の外へ、どこかへ向かって続いていく道。
道は、人と人を、あるいは人とどこかを、結ぶために引かれる。
だから道が残っているということは、
かつてそこに「行き来」があった、ということだ。
誰かが、毎日、そこを通った。
水を汲みに。畑を見に。隣の家へ。あるいは、山の向こうへ。
建物は「いた」ことの証拠で、
道は「動いていた」ことの証拠なのだと思う。
そして、動いていたことのほうが、ずっと長く残る。
なんだか、人の記憶にも似ている気がする。
何があったか、という事実はわりとすぐ忘れるのに、
どこへ向かっていたか、という気持ちのほうは、なかなか消えない。
——という話を、誰にするでもなく、また書いてしまった。
暑い盛りだが、こういうときこそ、涼しい山の中を歩くに限る。

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