「廃村めぐりが趣味です」と言うと、たいてい変な顔をされる。
心霊スポット的なものを想像されることが多いのだけれど、ぼくの興味はそこにはない。
幽霊にもオカルトにも、正直あまり関心がない。
ぼくが見たいのは、かつてそこに人が暮らしていた、その生活の輪郭のほうだ。
崩れかけた小学校の門柱に、まだ校名の表札が残っている。
神社の跡地に、台座だけになった狛犬がある。
畑だったとわかる平地に、季節になると誰も採らない行者にんにくが律儀に出てくる。
そういうものを見ていると、地名の話と同じで、土地が履歴書に見えてくる。
人がいた、という事実が、こんなにもはっきりと風景に残るものなのか、といつも思う。
今日はそういう、しんみりした話ではなくて、もっと実用的な話を書く。
廃村を歩くときに、ぼくが何を持っていくか、という話だ。
たまに「行ってみたい」と言ってくれる人がいるので、その人たちへの覚え書きでもある。
長靴。
これは絶対。スニーカーで入って後悔したことが何度もある。
廃村はたいてい沢沿いか谷あいにあって、道がぬかるんでいる。
そして藪。夏場は背丈ほどの草をかき分けることになる。
熊鈴とラジオ。
北海道の山に入る以上、これは命に関わる。
鈴だけでなく、小さなラジオをつけっぱなしにして歩く人も多い。
人の声がいちばん効くらしい。
……まあ、誰もいない山中で、ひとりラジオの音だけ響かせて歩くのは、
それはそれでなかなかシュールな絵ではあるのだけれど。
紙の地図と、古い地形図。
スマホのGPSはもちろん使うけれど、電波が入らない場所も多い。
それより大事なのが、古い地形図だ。
国土地理院の古い版を見ると、いまは載っていない道や建物が描かれている。
廃村を歩くというのは、ある意味、古い地図の上を歩くことだ。
いまの地図には何もない場所に、かつての地図では学校や寺の記号がある。
その「ずれ」を頼りに歩く。
カメラ。
スマホでも撮るけれど、ぼくはいまだに小さいデジカメも持っていく。
記録として残すなら、やっぱり別に一台あると安心する。
あとで写真を見返すと、現地では気づかなかったものが写っていることがある。
看板の文字とか、石碑の刻字とか。
「あ、これ読めたじゃないか」と、家に帰ってから気づく。
ノートと、できれば録音機。
これがいちばん大事かもしれない。
廃村のまわりには、たいてい、まだ近くに住んでいる人がいる。
その集落で生まれた人、通っていた人、親が働いていた人。
そういう人に話を聞けるのは、本当に運がいいときだけだ。
そして、そういう人たちは、年々いなくなっていく。
地名でも風習でも、文字に残っていないことのほうが圧倒的に多い。
それは人の記憶の中にしかなくて、その人がいなくなれば、消える。
だからぼくは、話を聞かせてもらえるときは、できるだけ録音させてもらう。
あとで何度も聞き返すと、最初は聞き流していた一言に、
とんでもなく大事なことが含まれていたりする。
廃村を歩いていると、よく思うことがある。
「失われた」とぼくらは簡単に言うけれど、
本当に失われたのかどうかは、案外わからない。
建物は朽ちても、地名は残る。
人はいなくなっても、その人が語ったことは、誰かのノートや録音に残る。
完全に消えるというのは、思っているよりずっと難しいことなのかもしれない。
逆に言えば――
いちど名づけられたものは、なかなか消えてくれない、とも言える。
まあ、それはまた別の話。
連休後半も、天気がもてば、もう一か所行ってくるつもりだ。
※「行ってみたい」という方へ:廃村は私有地や危険箇所を含みます。単独行は本当におすすめしません。最低限、長靴・熊対策・人に行き先を伝えること。これだけは守ってください。

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